こんにちは。今木商事(イマキショウジ@imakisyoji)です。ちょっと前に漫画原作者の小池一夫先生のこんなツイートが話題になっていました。
若い人に言いたいのは、夢や希望が打ち砕かれたら、さっさと次の人生を生きるのだ。人生、二毛作ぐらいは当たり前。長生きすれば三毛作ぐらいいけます。そンなに悲観的になりなさンな。僕の好きな言葉「楽観的になりたければ、客観的になれ」。(小池一夫)
— 小池一夫 (@koikekazuo) 2015, 3月 28
小池先生に便乗するようで何だか恐縮ですが、私もまったく同感ですので書いてみます。本当に人生には何回でもチャンスはあると思うのです。
案外人生は何とかなる…何回もデビューしてきた私の漫画家人生
最初のデビュー
私のデビューは一応1989年漫画アクションになっていますが、感覚的にはちょっと複雑です。というのも1989年当時はまだ別の仕事のバイト(後に正社員になりましたが)をやっていて東京に行ってなかったからです。そのとき知人からこんな意味のことをいわれました。
「早く東京に行って本格的に漫画家の仕事を始めれば良かったのに…今からではもう遅いのでは」
漫画アクションの新人賞をとったのが1988年です。しかもそのとき担当編集さんから「東京に来る気があるか」とまでいわれていたのに大阪でグズグズしている私を見てその人はがまんならなかったのでしょう。自分でも「そうだよな…何やってるんだ」と思ったくらいです。
そしてさらに時が過ぎて1991年。2作目が載ることが決まった頃、担当編集さん(前の人とは別人)におずおずと「あのう…東京に行こうと思ってるんですが」と伝えました。その人はこういいました。「今木くん今いくつだっけ?」「26歳です」
「う~んギリギリか!」
今考えるとその人は「ギリギリ大丈夫」の意味でいってくれたのかもしれません。しかしその言葉を聞いたとき私としては「遅すぎるねえ」といわれたように感じてしまったのです。
しかもそこからアシスタント修行を始めるわけですが、最低2年はいなくてはいけないそうで、そうなると28歳になってしまいます。よく期待と不安が入り混じってなどといいますが不安100%の上京でした。
2度目のデビュー
東京に出てアシスタントを始めて半年くらいたった頃、私たちアシスタントたちに仕事がきました。当時はファミコンからスーパーファミコンに移り変わるくらいのゲーム全盛時で、そういったマリオとかストⅡとかのゲームのキャラクターを使って4コマ漫画を描く仕事でした。
これは後に毎月のように描かせてもらうことになり、また雑誌(ファミコン4コマ王国)にも載せてもらえるようになりました。
前半はアシスタントをやりながらですが、毎月雑誌に載っていたので心情的にはこちらの方がデビューしたなという感じが強いです。
3度目のデビュー
結局アシスタント修行は2年以上になりましたが、師匠の紹介でコミックボンボンの編集さんと知り合いになりました。
当時ボンボンは春休みや夏休みなどに出す増刊号に載せる新人をたくさん探していたのでそこにうまく乗った形ですね。増刊号で3回描かせてもらった後、本誌の連載の話が来ました。
これが私の代表作になる「プラモウォーズ」です。だから実質的なデビューはこの時期になるのかもしれません。この後も「ビーストウォーズ」シリーズなど立て続けに仕事が来まして、今考えるとこの時期がピークでしたね。
4度目のデビュー?
この後コミックボンボンが休刊になってあちこちフラフラしていたわけですが、前に書いた通り2010年に一念発起してネットを探して漫画の仕事のマッチングサイトのようなところを片っ端から登録しました。「覆面マニア」もこの時期ですね。以前の出版社とのつきあいもほとんど関係ないところからのスタートですから、このあたりが4度目のデビューといっていえなくもないかなと思います。
5度目のデビュー
そして今回の「お餅マンガ」の企画でもう1回はい上がろうとしているわけです。こうして見てみると我ながらけっこうしぶといな~と思います(笑)
何回でもがんばろう
まあ小池先生のおっしゃりたいのはたとえば漫画家になる夢が破れても他の職業を目指してがんばればいいんだということかもしれません。そういう意味では私のやってきたこととちょっと違うかもしれませんが…。
しかし26歳であせっていた自分に今なら「そんなにあせらなくてもいいよ」といいたいです。そしてこの文章を読んでいるあなたもひょっとしたら「私はもう26歳になってしまったし…」などと考えてしまっているかもしれませんが、わりと人生何度でもやり直しできるよと伝えたいです。